記憶の再生について考えるブログ

放送大で学位取得した古川美樹が考えたことを脈絡もなく書き綴ったものです.

放送大学博士後期課程と学位取得16

前回の記事を書いて1か月経ってしまった.

この間,2つの論文を仕上げていたのでどうしても書く時間がなかった.その中の1つは,国際会議のプロシーディングスである.査読者が4人もいたが,幸いなことに採用された.この件に関しては後日.

予備論文審査に通った後は,ひたすら博士論文を書くのみである.その時期が2017年9月下旬であり,博士論文の提出期限は2017年12月4日であった.実質2か月しか残っていなかった.当然ながら小学校教諭としての勤務はしながらの作成となる.62000字の予備論文をどのように進化させるかが課題である.従って,内容の充実を図りながら複雑な主張内容の論理的な構成を考えていく日々が続いた.主研究指導の先生の「10万字」という文字数だけが妙に気になり,この時点である程度着地点に到着していた論文を再び離陸させ,どのようにその軌跡を描くかに苦慮していた.しかし,運命というものは不思議なもので,それはまるでベルトコンベアのように徐々に近づいていたのである.

当時(2017),僕は級外の教員として複数のクラスで理科を指導していたのだが,丁度,5年1組というクラスの学習が「台風」の学習であった.

 

放送大学博士後期課程と学位取得15

予備論文審査その2

 2017年6月10日,予備論文を執筆することができるかはこの報告会で決定される.この会に出席したのは,主研究指導教員の先生,副研究指導教員の先生(2名),人間科学プログラムの先生方,ゼミ指導を受けた別プログラムの先生,博士後期課程第3期生など10名弱であった.色々と考えて資料を作ったが,この時点で資料からすぐに予備論文を作成する自信は全く無かった.従って,先生方から厳しい指摘も多数あり,もう一度自分の執筆計画を見直すよい機会となった.そうは言っても,決定的なダメージはなく,ほどなくして予備論文執筆の許可が与えられた.

許可が与えられたと言っても帰郷して20日程で説明の全てを論文の形に仕上げなければならず,小学校勤務という日常業務の合間に予備論文を仕上げるのはかなり難しそうに思えた.学校の勤務が16:35で終了すると言っても,すぐに帰宅することはない.当時の公務分掌は,6年算数科のTTと高学年の理科であったと記憶している.いずれにしても,次の日の授業の準備や生徒指導の問題など,現場教員なりの忙しさはあった.したがって,予備論文の執筆は深夜になっていた.毎日の睡眠時間も4時間程度であった.

しかし,やればできるもので7月を待たずに約62000字,A4版で84ページの予備論文は仕上がった.この論文をもとに,8月には予備論文審査が非公開で行われた.その結果は主研究指導の先生から聞かされた.合格である.すなわち,博士論文を執筆する許可が与えられた.8月上旬のことである.博士論文の提出期限は12月初旬であることから,この時点で残された時間は,4か月弱となった.

8月16日に上京し,主研究指導の先生と予備論文について議論した.そのとき,主研究指導の先生が,同じプログラムの一期生である村田直樹さんの論文の文字数について,10万字にものぼる論文を執筆されたことを話された.自分の予備論文が約62000字であっただけに,文字数の不足感を感じずにはいられなかった.

8月のこの時期は,一期生4名はすでに口頭試問も終わり,最終の修正作業をしている時期であった.先生の話の中で気になる話題があった.それは,口頭試問時に大幅な論文の修正を要求された一期生がいたということである.

僕はその後,9月からは月一で上京し先生と議論を続けながら,博士論文の特に序章のボリュームを増やすことになる.ちょうどその日は,第一期生4名が博士の学位記の授与を受けた日でもあった.

放送大学博士後期課程と学位取得14

予備論文審査

2017年6月10日,予備論文の全体構造を簡潔に紹介し,構成と章ごとの内容を説明した上で,7月1日までに論文がまとめられるか否かについて先生方が議論し判定する会が,放送大学東京文京学習センターで開催されることになった.なお,その後の予定は,提出された予備論文について,8月上旬に開かれる予備論文審査会において,博士論文の執筆の可否を決定するようになっていたと記憶している.即ち,予備論文を書けるだけのデータや構想を6月10日時点で持っているかどうかを判定されることになる.これはかなり厳しいものであった.

担当の先生から指示されたのは,「期日までに予備論文の概要を説明する資料を作成せよ」という内容だけであった.当然ながら説明会は初めてのことであるし,そのような資料は作成したこともなかったので,パワーポイントのフォーマットも,それまでに作成した別の資料を参考に分かり易いようにと,絵を多用したものを作成していたが,先生との前日(6月9日)のメールのやり取りでボツとなってしまった.つまり,限られた時間で研究の概要を説明するにはあまりにも詳しすぎるということであり,個々の事象を細かく議論する(場合によっては焦点化されて議論することもあろうが)のではなく,そこで必要なものは,予備論文としての体裁が分かる論理展開を明示した資料ということであった.つまり,最初に予備論文の目次を明示し,それに若干の説明を付加した資料ということである.従って,図表などではなく,予備論文がどのような論理展開で最終結論に帰結するかを示さなければならなかったのである.これに気付かされたのが説明会の前日,正確には6月9日午前2:04の先生からのメールであり,修正作業は説明会へ上京したその日のホテルで行うことになった.従って,作成するパワーポイントのデザイン等に時間をかけることはできなくなり,指導の先生が博士を取得されたときに使用された資料のフォーマットを譲って頂き,それを利用してホテル到着と同時に作業を開始し,仕上がったのは当日(6月10日)の午前1時過ぎであった.誰でもそうであろうが,初めてのことになれば不安になるし,どのようなものであるか推測すらできないことがある.まして,このような資料がインターネットに掲載されていることは,ほぼない.そこで,これから博士論文を書く人の参考となるように,拙作ではあるがこの時に使用した資料をここに公開する.当然であるが,この後,博士論文においては修正されたり,加筆されたりすることになる.

 

drive.google.com




























 

 

 

放送大学博士後期課程と学位取得13

博士後期課程は,博論を書き上げることが至上命令である.よっぽどの事がない限り,その過程は初めて経験することばかりである.主研究指導教員の先生からの指示も,3年間のタイムスケジュールを理解していることを前提として指示や指導を受けるので,自分で現在の進捗を常に熟知していることが必要である.僕は,学位取得11で書いたように,スケジュールを決めていたが,日々の仕事に追われながらも進捗状況を確認することだけは怠らなかった. 

2016年の秋に,学会を変更して論文を投稿したところ条件付き採録となり,その後の修正を経て正式に採録となった.この学会誌の発行は2017年の春であった.

この論文のタイトルは,「教師の発話に起因した児童の誤概念の修正に関する授業実践」というもので簡単に言えば,教師の発話で児童が誤概念を獲得してしまうことを示し,その修正も教師の発話でなされることを具体的な事例によって示したものである.詳しくは,以下のリンクから参照して頂きたい.https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsei/32/3/32_13/_pdf

つまり,貧弱な言語概念しか持たない児童の指導は本当に難しいということを,小学校での指導経験のない初等中等教育研究者や指導者に向けて示したものである.これは,ずいぶん前に,ある大学の先生が講演会のステージで模範授業と称されて実際の児童を据えて授業をされたときに,先生の発する言葉が児童にとって難しく,児童が何も答えなかったことを思い出し,初等中等教育の難しさを是非とも研究者に知ってもらいたいという願いもあって書いたものである.この論文は,予定より1年遅れの採録である.当然ながら焦った.博士論文を書くための条件は,査読1本とそれに準ずる論文1本の2本であった.そこで1本目を学会に投稿する一方,2016年の晩秋ごろから角先生と共同で佐賀大学教育実践研究に投稿する論文を書いていた.この論文のタイトルは,「記憶再生マップで表された児童の構成概念と記憶の関係-エピソード記憶意味記憶の比率について-」とした.これは,学習後に記憶再生マップを描きながらエピソード記憶意味記憶を想起し,どのようなプロセスで児童の概念形成がなされたかを,ノードに書かれたトピックを詳細に読み取り解明したものである.僕はこのような手法で概念形成の経緯を明らかにした論文を見たことはない.また,そろそろこの続きを執筆しなければならない.

http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/123152/1/furukawa-1_201703.pdf

いずれにしても,これで博士論文を書き始めることができるようになった.2017年春である.しかし,目の前には博士論文の予備審査が迫っていた.2017年6月の予定であった.

 

 

放送大学博士後期課程と学位取得12

前回の話で共同研究を行っている先生方の名前を明らかにしていなかったが,別に悪事を働いているわけではないので,今回からは実名としたい.

ここで僕が共同研究をするようになった経緯について話す.僕は,小学校の教諭として採用されて7年が過ぎたとき,佐賀県教育センターの情報システム係への異動を命ぜられ教職員のパソコン研修を担うことになった.その時の上司(係長)は,佐賀県教育情報システムの生みの親である大島正豊先生である.非常に頭脳明晰な方で,多くの大学の先生方と付き合いがあった.大島先生の伝手で,教育センターの外部講師を務められた先生方としては,大槻説乎先生,木村捨雄先生,篠原文陽児先生がいらっしゃったことを記憶している.大槻先生は,我々所員に対しても大変気軽に話しかけて頂いたが,木村先生が来所されたときには,威圧感があり緊張したことを覚えている.大槻先生が講座で述べられた言葉で今も覚えているのが,「皆さん教員は,個人的にコンピュータから逃げることはできても,教育的には逃げることができません.」というお言葉であった.この言葉は,その後の教員としての勤務の中で,何度となく思い出したものである.篠原先生は,大変気軽に我々所員対して話しかけて頂き親しみ深かった.当時はパソコンの黎明期であり,パソコンの教育への利用について,主にCAIの研修を富士通のSchoolAceというシステムを利用して行っていた.同時に,タートルグラフィックスで有名なLOGO言語によるプログラミングの指導も行った.このようなことにより,当時のコンピュータ教育を牽引されていた先生方を知ることができた.その後,2年の教育センター勤務を経て僕は武雄北中学校に赴任することになる.ここでも僕は,コンピュータの教育利用についての仕事をすることになる.それが「ネットワーク利用環境提供事業」,通称100校プロジェクト(1995-1996)である.ここで僕は,その責任者となってインターネットの教育利用について実践を行うことになった.そのときに地元の大学として佐賀大学が,実験用のネットワーク環境を構築することとなった.それを率いていたのが,佐賀大学理工学部教授の近藤弘樹先生である.近藤先生は僕が佐賀大学の物理学科時代の恩師であった.ちなみに,インターネット回線を使ったテレビ会議システムを用いて日本で初めて学校間の音声と動画を送受信する実験に成功したのは我々である.すなわち,現在のオンライン授業の始まりは佐賀県からということになる.100校プロジェクトに絡めて行われたこの実験を,「グローバルクラスルームプロジェクト」と称した.

さらに2数年後,佐賀県内の高等学校2校が「へき地学校高度情報通信設備(マルチメディア)活用方法研究事業」に指定され,僕は学識経験者として,その評議会の委員となった.そのときにおいでになったのが,佐伯胖先生である.このようなことから,時々佐賀大学の授業にも外部講師として呼ばれることになったり,研究発表会での指導講師として講演をしたりするうちに,佐賀大学教育学部教授の角和博先生と知り合うことになる.さらに学会にも入会し分科会等で発表する機会が増えてきた.そしてその共同研究者として角先生が定着した.角先生のご専門は技術教育であり,また情報教育にも造詣が深く,e-learningについては早くから取り組まれて,僕が放送大学修士課程に入る前から論文を共同で作成していた.また,僕が博士後期課程に入ってから,僕の論文が角先生の研究室に来られていた近藤弘樹先生(このときはすでに佐賀大学の名誉教授)の目に止まり,3人で共同研究を行うようになった.ところが,以前の書き込みでも書いたように,2016年9月に近藤先生が急逝されて,共同研究は再び2人となった.近藤先生は名古屋大学のご出身で,先生の葬儀には学生時代を共に過ごされ,2008年にノーベル物理学賞を受賞された益川敏英先生が参列されていた.

放送大学博士後期課程と学位取得11

博士後期課程の1年目は,教育学研究法(2)「教育社会学研究法」が後期に放送大学本部で開催された.使用教材は,「社会科学のリサーチ・デザイン~定性的研究における科学的推論~G・キング,R・O・子へイン,S・ヴァーバ著,真渕 勝 監修,勁草書房」で,研究法に関するページについて講義があり,その後,指定された数十ページの内容についてコメントを書くというレポート提出の課題が与えられた.文字数は2000文字程度(?)と少なかったように記憶している.この課題が終了して次に取り掛かったのが査読論文の作成である.目標は,2年目終了までには,査読論文1本とそれに準ずる論文1本を書き上げることである.

3年間で博士論文を書き上げるスケジュールとしては,

<2015年度>

<4月-------------------------------1年目------------------------------------->

   入学           人間科学特論               教育学研究法(2)

                                              《目標》査読論文①作成→

<2016年度>

<4月-------------------------------2年目------------------------------------->

                    数理・情報研究法(4)

   《目標》査読論文①完成                                                         《目標》準論文②完成

 <2017年度>

<4月-----------6月----------------3年目----------------12月---------------->

      予備論文審査               博士論文提出   修了

 《目標》予備論文完成・博論書き始め                  《目標》博論完成      

 

このように設定した.

査読論文①のネタは既に持っており,修士論文との兼ね合いについても十分考えていたので,2016年度の初夏には完成することができた.そこで,当時所属していた学会に投稿した.しばらくして条件付き採録として戻されたので,修正を行い再投稿した.しかし,一人の査読者から修正箇所以外の新たな実験要求があり,この学会への投稿を断念することになる.僕は,修士論文を書き上げる前から,地元の大学の先生と共同研究を行っており,途中から僕の物理学科時代の恩師である名誉博士も共同研究に参加頂いて論文の執筆をしていた.この学会への投稿の断念は3人の合意である.

すぐさま別の学会への投稿へ舵を切った.その最中に恩師の名誉教授が急逝された.2016年9月である.

 

 

~ひと休み2~

Amazon Prime Videoで「感染列島」という映画を観ている.得体の知れないウィルスが日本列島に広がっていく話である.恋愛物語と揶揄される展開もあるが,現在の医療崩壊らしきシーンも多く表現され,実際の医療現場の様子を垣間見た気がした.完全に主役は医療現場である.実際,この瞬間も医療現場は戦時中のように一刻一秒を争っている.物語は血清療法によってウィルスを封じ込めた.現実では,新型コロナウィルスの対策はどこまで進んでいるのか.政府の10万円の話ばかりメディアを賑わせ,不安が蔓延してくる.この映画の途中で,感染者数に関して「政府はもはや正確な数字を挙げられなかった.」というテロップが提示された.まさに今の状況がこれであろう.最初から検査体制を整えられなかったことは,早期の医療崩壊を防ぐことに役立ったかもしれないが,先の見えない現実のなかで生活する辛さもある.

学校では今日(4/21)からの休校に備えて,昨日は休校に対する指導を行った.いつもなら,明日から学校が休みとなれば,児童もウキウキするものであるが,その様子はいつもと異なっていた.再び明日から,家にこもって生活しなければならないことを気にしている様子が伺える.3月ほぼ全ての授業日が自宅待機に代わり,やっと4/6になって新学期が始まり,ウキウキした表情で登校した児童が再び2週間の自宅待機となった.現実は映画と違う.映画は制作側が主張する社会構造にフォーカスして一次元的に思考することが多い.しかし,現実は様々な社会現場で事が同時進行して行く.さらに,様々なメディアが進化した現代は,ふと思考するときに多次元的に物事が見え,それぞれの異なる空気感を感じてしまう.映画と違い,このような状況をコントロールする政治家は,現実に起こっている現象を感じて,まさに多次元的に思考する能力が求められている.「感染列島」の評価が,「結局,恋愛もの」などと厳しかった人の気持ちも分かるが,あまり政治の場面を描けなかった制作側の気持ちも分かる.それをやったら視聴者に何を感じてもらいたいかの主張が曖昧になってくる.

4・5年の児童には,家庭での観察を指示した.子供用の温度計を貸与し4年生は晴れの日と曇りや雨の日の気温の変化を1時間ごとに記録する.5年生は1日の午前と午後の雲の様子をスケッチする.このようなことでもしないと,5月7日からの再開には間に合わないかもしれない.しかし,その後のことは全くの白紙状態であり,再び延長するかもしれない.そうなったら,まさに「感染列島」が現実となり,映画に表されていない新たな恐怖が襲ってくるかも知れない.そうならないことを祈ろう.