お正月の能登半島地震で始まった令和6年も,もうすぐ終わりです.
このブログは,ほぼ10日おきに更新作業を行ってきました.今年は今回で38回目となります.いつもお読み頂き,感謝申し上げます.
さて今回の話題は,博論によればp22~28に書かれている「4. 仮説と方法」の内容です.ここでは,二つの仮説を設定しました.今回は,その内の一つについて説明いたします.
なお,文中の「児童」は,中学校・高等学校にあっては,生徒と読み替えて下さい.
仮説①「教師の発話に起因する児童の誤概念は,教師の別の発話やジェスチャーにより修正される.」
私の博論は,このように「教師の発話」についての仮説を最初に取り上げました.
それは,様々な事柄の概念が主に言語によって表象されるからです.
また児童が正しい概念を形成するためには,児童が,授業で交わされる言語を正しく再認する必要があるからです.
この図は,理科の時間に,先生が水に食塩や砂糖などを溶かす実験を行うことを前提として児童に,食塩や砂糖などの発言を期待して発話した数秒間の出来事を絵にしたものです.
この図の例では,先生の発話する内容と児童が経験した内容やもともと持っていた関連する知識の内容は,言語で表現されています.
このように記憶の中身については,主に言語によって表象されるのです.
これは前回お示しした目的①「教師の発話による児童の誤概念の形成と修正」に関係しています.
一般的に,これまでの教育関連の論文等で,「教師の発話」を児童の誤概念形成の原因と考えたものは極めて少なく,むしろ教師の発話は完璧であるとの前提で,様々な議論がなされていたと考えています.
なぜなら,文科省からの様々な提言等々は,教師の発話を非とする発想がありません.
ですから,「学習の目標や教材について理解し,計画を立て,見通しを持って学習し,その過程や達成状況を評価して次につなげる能力を育成するために,個別最適な学びを自己調整して進めることが大切.」などの提言も,全て学習者の行動目標的に規定してあるような表現でした.
しかし,「学習の目標や教材について理解し」について言えば,そもそも理解することが出来ない児童も存在する訳で,その原因も児童の内部的要因だけではないはずであるという議論が存在しても不思議ではありません.
しかし,そのような疑問は切り捨てられて,最近では「個別最適な学び」を実現するための方策や自身の学びをいかにして「自己調整」するかなどのトレンド的な研究内容が多いような気がしています.
授業を含める学校生活を教師と児童,児童同士,児童自身,児童と道具等の情報のやり取りと考えると,最も多くの時間になるのは,教師と児童の情報のやり取りです.
その中でも言語音が行き交う発話によるやり取りが,最も多くの時間を要するはずです.
以前,現場の教員向けの講演会で,大学の先生が檀上に設けられた教室のセットで,数人の児童を相手に「模範授業」なるものを公開されたことがありました.
しかし,その先生が一生懸命に授業をなさるのですが,発話される言語が児童にとって難しく,上手く行かなかったことを思い出します.
先生は,ご自身の発話される言語が,児童にとって難しいとは認識されずに,なぜ児童は期待した言語を発話しないのか迷っておられましたが,私は分かっていたので残念な気持ちになりました.
この例を笑い話としてスルーするのか,研究の一つの素材と考えるかが重要であると言えます.
ここの研究が上手く行かなければ,今後AIによる教育現場での授業支援等々の問題が出た場合,AIも人間と同じ轍を踏むことになりかねないと危惧しています.
この仮説は,教師の発話によって児童に誤概念が生じたとしても,教師の更なる修正のための発話やジェスチャーにより,誤概念が修正されるだろうというものです.
おそらく現場の先生方は,直感的に「できそうだ」とお考えになるのではないでしょうか.
今後,教師の発話にフォーカスした実践研究の詳しい中身についてもご紹介いたしますので,続けてこのブログに注目して下さい.
今回はここまでです.丁寧にお読み頂きありがとうございました.
最後にお願いです.このブログの内容が,教育の現場で活躍されている先生方に有益であるとお考えになる場合,是非とも情報を共有して頂くと,私のやる気につながってきます.