記憶の再生について考えるブログ

児童がどのようにして学習内容を理解するかを実践経験をもとに紹介しています.

児童の「分かった」をどうしたら分かるか

 前回は,「児童は,前回の演劇を今日理解し,これから始まる演劇の意味に気づく」と書きましたが,当然ながら単元の学習は,常に過去の学習を記憶想起しながら,新たな学習が始まるというシナリオで日々の授業が展開されます.

 授業の終盤には,1単位時間の顛末を言語でまとめることがあります.所謂,分かったことや結論ですが,この時点で全員が理解していればいい訳です.しかし,児童が学習内容を理解するタイミングは,これまでも述べたように個々人で異なります.理科の授業を例に言えば,実験がメインの授業なら,その結果は児童が「見たまま」ですので,「〇〇になった」などという言語の表現には多くの児童が納得します.しかし,その結果が得られた訳を説明することが全ての児童・生徒にできるかは別問題です.

 もし,そのことを要求するならば,実験結果に至る原因と結果の因果関係が重要となり,実験をするようになった原因(理由)も含めて,実験結果が得られるまでのストーリーを完全に自身の脳で再現しなければなりません.児童自身が,納得に至らなければ,言語でまとめた板書の内容も宙に浮くことになります.つまり,教師が授業内容をまとめたつもりでも,そのまとめの言語は,ある児童にとっては何の意味も持たない文字列でしかありません.

 児童・生徒の理解に至る時間が個々人で異なるのなら,無理して1単位時間にまとめまで行う必要はありませんし,その方が教師にとっても気が楽です.私が小中学校で指導した30年以上の経験を思い出しても,全員の児童・生徒が1単位時間の学習内容を全て理解したことなど皆無に近いと思います.つまり1単位時間の経過後に,全ての児童・生徒が同時に理解に至るというロジックは,決して正しいとは言えないと考えます.ただ,少人数授業などのように,その可能性を高める工夫はありますが,日本の規定された1学級の人数では,かなり難しいと考えます.1学級の人数を少なくすることが,学習内容を理解する児童・生徒の割合を高めることはあっても,全員を理解に至らしめる最適解にはなり得ないということです.

 では,1単位時間での終盤には,どのような学習行動を課せばよいのでしょうか.よくやられているのが「分かったこと」を書かせるという学習行動です.しかし,分かっていない児童にとっては書く材料が見つかりませんし,分かっていないのに分かったことは書けません.

 このようなときに,児童にとって最も負担の少ない課題は「感想」です.所謂,自由記述で「何でもよいので書いてみましょう」とするのです.自由記述ならば,分かった喜び,教師に対する説明,自分が見た現象面に対する驚きや感動,疑問など多種多様な書き込みが見られることになります.一見すると,様々に書かれている内容ですので,評価が大変に思えますが,学級集団の理解の程度を知る上では,貴重なデータです.

 実際に授業で,「感想を書きましょう」と言えば全員が書くことができています.学習があまり得意でない児童でも,驚いたことや嬉しかったことなど何か書きます.理解した児童は,論理的な文章を書くことができます.不思議だったことや疑問点を書く児童もいますし,「よく分からないけれども,たぶんこうだ」と推測めいたことを書く児童もいます.このような感想は児童の本音ですから,その時点での理解の程度が読み取れますし授業の反省もできます.

 鉛筆で自由に書く(描く)喜びを味わわせることで,今は分かっていない児童も,この後の記憶再生マップを自由に描くようになり,描いたときに事の次第に気づくようになってきます.

 分かる時までもう少しです. 今回のここまでの取りあえずのまとめは,

自由の中にこそ,本音あり

ということになります.

 今回はここまでです.お読みいただきありがとうございました.