このブログは,教育実践の結果から分かったことを,分かりやすく紹介していますが,今回は初等中等学校で勤務する多くの教員が感じていることを書きます.
先日,UNEXTで「小さな恋のメロディ」という映画を見ました.マーク・レスター,トレイシー・ハイド,ジャック・ワイルドを中心とした思春期の子供たちが,自分たちを管理しようとする大人たちに反抗して,夢に向けて奔走する物語です.
何十年ぶりに観ましたが,好きな映画はいつ観ても感動します.ところで,観ながらふと思ったのは,1970年代のイギリスの小学校というフィールドについてでした.私は専門ではないので詳しくありませんが,宗教やラテン語の授業があり,当時から小学校でも教科担任制のようでした.教育制度の違いは,そのまま国民全体の学力に直結すると考えます.この映画に登場するイギリスの小学校の先生方は,自身が教える教科のプロという印象で,威厳も感じられました.また,校内のダンスパーティのシーンなどは,ずいぶん日本と違う自由な雰囲気でした.何か教師としての羨ましさを感じたのはなぜでしょうか.
一方,学力との関連からはノーベル賞を連想します。優れた人物がどの程度輩出されたかは、その国の教育制度や文化、政治体制と大いに関係があるはずです.ノーベル賞受賞者数は,自然科学分野では、1位はアメリカで2位がイングランドです.日本は5位ですから、人口に比例しているものではありません.しかし,同様の教育を受けているのであれば,また人口以外のノーベル賞輩出数決定要因に有意差が無ければ人口に比例するはずで,中国が断トツで1位でしょう.しかし実際に中国等のいくつかの国は,ノーベル賞などよりも国益(特に軍事力)が重要視され,優れた人物の研究成果の公表を控えているが,その技術力は突出していると指摘する学者もいます.しかし,こう見ると各国の教育制度の議論だけで学力のことは語れないということになります.
しかし,アメリカやイギリスと日本は何かが違うと考えてみることはできそうです.また,戦後の急成長をもたらした日本の教育を参考にした諸外国が,それをどのようにカスタマイズしていったのかも気になるところです.
この映画が公開された頃の日本では,大阪の地に足を運んだ多くの児童が,大阪万国博覧会(1970年)で未来の科学技術を目の当たりにし胸をときめかせました.しかし,学校では相変わらずに机に座り,教科書,ノート,黒板だけで,それまでと変わらない一斉指導を受けていたのです.
もし,あのとき,胸をときめかせた児童に対して,その子に適した方法で何か教育的なメッセージを与えることができたなら,より一層日本の科学技術が進歩したかも知れません.つまり良質な教育環境とでも言うべきものでしょうか.それは,何もコンピュータである必要もなく,教師がその事と関係のある話をしたり,未来について想像する授業を行っても良かったと思います.しかしながら,学習指導要領には指導すべき内容が書かれてあり,教師は忠実に業務を遂行していったのです.従って,大阪万国博覧会という経験も,よい思い出として心にしまい込まれていったのでしょう.
教育現場にいると,ときどき新しい波が来るのを体験します.それは,教室環境が変わったり,学習指導要領が変更になったり,教科書が変わったりするときです.
1980年代の終わりから1990年代初頭にかけて,パソコン通信に始まるネットワークが教育の環境として登場し、CAIなどのコンピュータ教育の流れで学力向上を目指そうとした時期がありました.私も,県の教育センターのパソコン断続研修という年間10日の講座を受講し,CAIに関するプログラミングのスキルを身に付けたことがあります.その他,BASICやLOGOなどのコンピュータ言語は,当時の教員が必死になって学びました.
しかし,各学校の環境はすぐには整備されず,相変わらず旧態依然としていました.年間10日もの研修で身に付けたプログラミングのスキルも,実際に各学校で発揮するほどにはならず,いつしか忘れられてしまいました.そして,教育センターの講座も無くなり,数年後にはハードウェアも撤去されてしまいました.
日本の教育現場は常にトップダウン的にやって来る目新しきものにさらされています.技術革新の波が最も遅くやって来るのは学校であるとよく言われます.ですから,教員は社会の変化に注目しつつ,そろそろ新しい波が教育の現場にもやって来るだろうことを予感しつつ勤務しています.最近の動きで言えば,高学年の算数・理科・外国語の教科担任制,プログラミング教育です.Society 5.0時代を生きる児童・生徒の育成を目指すGIGAスクール構想もそうですし,STEAM教育の流れについても感じています.
つまり,現場の教員はこのような新しき流れに目を奪われ,授業について考える時間をも失ってしまったのではないかと考えています.昔は,教科書・ノート・黒板で行う授業の内容をどのように構成するかなどを考える時間が十分にありましたが,今は新しきものについて教師が学ぶ必要があり,校内研究の内容も教科の研究がそれらに取って代った学校も見受けられます.
働き方改革の旗を一方では掲げつつ,もう片方には教育の新たな流れがもたらされ,本当に教育の最前線は疲弊していると言っても過言ではないでしょう.社会が複雑になればなる程,学ぶべき内容も増え,当然ながら教える側にも新たな知見や技能を身に付ける必要が生じています.これからの教員は,これまでの教員に比べて様々な知識を概念化して授業を行うことになるのでしょう.
その他にはこんな話もあります.ある地区では,「○○授業」と称する授業の流し方が決められています.長期の休みなどには,これに関するセミナーが開催されています.しかし,この方法に関する学術論文等のエビデンスはありません.各学校の各学級の児童がどのような児童の集団であれ,やり方を統一することに主眼が置かれ,その普及啓蒙に時間がかけられています.いつまで経っても30名や40名の一斉授業で,教師主体の授業です.しかし,主催する人たちは,個々の児童に寄り添っていると主張しますが,学力はなかなか上がりません.そんな時にそのエビデンスに挙げられるのが家庭環境です.家庭学習が疎かになっているなどは,よく聞く理由の一つです.学力向上を阻害する原因は,家庭環境のような外部決定論で論じるのではなく,授業の中身で議論することが大切ではないでしょうか.
「小さな恋のメロディ」で先生方と対峙した子供たちの生き生きした姿やそれでも体を張って子供と向き合っている学校の先生たちの姿がやっぱり好きです.児童の学び方を教師の授業展開と混同してはいけません.物事の概念化は,意味のある映像を見ることにより一瞬で起こったり,学んだ過程を想起し,そのつながりに納得して起こったりします.もっと児童一人一人に寄り添った教育が実現できるように,学校現場ですべきこと,それ以外が担うことをはっきりさせて,現場の教師がもっと生き生きとプロとして主体的に働ける環境づくりをしていく必要があります.