記憶の再生について考えるブログ

児童がどのようにして学習内容を理解するかを実践経験をもとに紹介しています.

放送大学博士後期課程と学位取得12

前回の話で共同研究を行っている先生方の名前を明らかにしていなかったが,別に悪事を働いているわけではないので,今回からは実名としたい.

ここで僕が共同研究をするようになった経緯について話す.僕は,小学校の教諭として採用されて7年が過ぎたとき,佐賀県教育センターの情報システム係への異動を命ぜられ教職員のパソコン研修を担うことになった.その時の上司(係長)は,佐賀県教育情報システムの生みの親である大島正豊先生である.非常に頭脳明晰な方で,多くの大学の先生方と付き合いがあった.大島先生の伝手で,教育センターの外部講師を務められた先生方としては,大槻説乎先生,木村捨雄先生,篠原文陽児先生がいらっしゃったことを記憶している.大槻先生は,我々所員に対しても大変気軽に話しかけて頂いたが,木村先生が来所されたときには,威圧感があり緊張したことを覚えている.大槻先生が講座で述べられた言葉で今も覚えているのが,「皆さん教員は,個人的にコンピュータから逃げることはできても,教育的には逃げることができません.」というお言葉であった.この言葉は,その後の教員としての勤務の中で,何度となく思い出したものである.篠原先生は,大変気軽に我々所員対して話しかけて頂き親しみ深かった.当時はパソコンの黎明期であり,パソコンの教育への利用について,主にCAIの研修を富士通のSchoolAceというシステムを利用して行っていた.同時に,タートルグラフィックスで有名なLOGO言語によるプログラミングの指導も行った.このようなことにより,当時のコンピュータ教育を牽引されていた先生方を知ることができた.その後,2年の教育センター勤務を経て僕は武雄北中学校に赴任することになる.ここでも僕は,コンピュータの教育利用についての仕事をすることになる.それが「ネットワーク利用環境提供事業」,通称100校プロジェクト(1995-1996)である.ここで僕は,その責任者となってインターネットの教育利用について実践を行うことになった.そのときに地元の大学として佐賀大学が,実験用のネットワーク環境を構築することとなった.それを率いていたのが,佐賀大学理工学部教授の近藤弘樹先生である.近藤先生は僕が佐賀大学の物理学科時代の恩師であった.ちなみに,インターネット回線を使ったテレビ会議システムを用いて日本で初めて学校間の音声と動画を送受信する実験に成功したのは我々である.すなわち,現在のオンライン授業の始まりは佐賀県からということになる.100校プロジェクトに絡めて行われたこの実験を,「グローバルクラスルームプロジェクト」と称した.

さらに2数年後,佐賀県内の高等学校2校が「へき地学校高度情報通信設備(マルチメディア)活用方法研究事業」に指定され,僕は学識経験者として,その評議会の委員となった.そのときにおいでになったのが,佐伯胖先生である.このようなことから,時々佐賀大学の授業にも外部講師として呼ばれることになったり,研究発表会での指導講師として講演をしたりするうちに,佐賀大学教育学部教授の角和博先生と知り合うことになる.さらに学会にも入会し分科会等で発表する機会が増えてきた.そしてその共同研究者として角先生が定着した.角先生のご専門は技術教育であり,また情報教育にも造詣が深く,e-learningについては早くから取り組まれて,僕が放送大学修士課程に入る前から論文を共同で作成していた.また,僕が博士後期課程に入ってから,僕の論文が角先生の研究室に来られていた近藤弘樹先生(このときはすでに佐賀大学の名誉教授)の目に止まり,3人で共同研究を行うようになった.ところが,以前の書き込みでも書いたように,2016年9月に近藤先生が急逝されて,共同研究は再び2人となった.近藤先生は名古屋大学のご出身で,先生の葬儀には学生時代を共に過ごされ,2008年にノーベル物理学賞を受賞された益川敏英先生が参列されていた.