記憶の再生について考えるブログ

児童がどのようにして学習内容を理解するかを実践経験をもとに紹介しています.

放送大学博士後期課程と学位取得13

博士後期課程は,博論を書き上げることが至上命令である.よっぽどの事がない限り,その過程は初めて経験することばかりである.主研究指導教員の先生からの指示も,3年間のタイムスケジュールを理解していることを前提として指示や指導を受けるので,自分で現在の進捗を常に熟知していることが必要である.僕は,学位取得11で書いたように,スケジュールを決めていたが,日々の仕事に追われながらも進捗状況を確認することだけは怠らなかった. 

2016年の秋に,学会を変更して論文を投稿したところ条件付き採録となり,その後の修正を経て正式に採録となった.この学会誌の発行は2017年の春であった.

この論文のタイトルは,「教師の発話に起因した児童の誤概念の修正に関する授業実践」というもので簡単に言えば,教師の発話で児童が誤概念を獲得してしまうことを示し,その修正も教師の発話でなされることを具体的な事例によって示したものである.詳しくは,以下のリンクから参照して頂きたい.https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsei/32/3/32_13/_pdf

つまり,貧弱な言語概念しか持たない児童の指導は本当に難しいということを,小学校での指導経験のない初等中等教育研究者や指導者に向けて示したものである.これは,ずいぶん前に,ある大学の先生が講演会のステージで模範授業と称されて実際の児童を据えて授業をされたときに,先生の発する言葉が児童にとって難しく,児童が何も答えなかったことを思い出し,初等中等教育の難しさを是非とも研究者に知ってもらいたいという願いもあって書いたものである.この論文は,予定より1年遅れの採録である.当然ながら焦った.博士論文を書くための条件は,査読1本とそれに準ずる論文1本の2本であった.そこで1本目を学会に投稿する一方,2016年の晩秋ごろから角先生と共同で佐賀大学教育実践研究に投稿する論文を書いていた.この論文のタイトルは,「記憶再生マップで表された児童の構成概念と記憶の関係-エピソード記憶意味記憶の比率について-」とした.これは,学習後に記憶再生マップを描きながらエピソード記憶意味記憶を想起し,どのようなプロセスで児童の概念形成がなされたかを,ノードに書かれたトピックを詳細に読み取り解明したものである.僕はこのような手法で概念形成の経緯を明らかにした論文を見たことはない.また,そろそろこの続きを執筆しなければならない.

http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/123152/1/furukawa-1_201703.pdf

いずれにしても,これで博士論文を書き始めることができるようになった.2017年春である.しかし,目の前には博士論文の予備審査が迫っていた.2017年6月の予定であった.

 

 

放送大学博士後期課程と学位取得12

前回の話で共同研究を行っている先生方の名前を明らかにしていなかったが,別に悪事を働いているわけではないので,今回からは実名としたい.

ここで僕が共同研究をするようになった経緯について話す.僕は,小学校の教諭として採用されて7年が過ぎたとき,佐賀県教育センターの情報システム係への異動を命ぜられ教職員のパソコン研修を担うことになった.その時の上司(係長)は,佐賀県教育情報システムの生みの親である大島正豊先生である.非常に頭脳明晰な方で,多くの大学の先生方と付き合いがあった.大島先生の伝手で,教育センターの外部講師を務められた先生方としては,大槻説乎先生,木村捨雄先生,篠原文陽児先生がいらっしゃったことを記憶している.大槻先生は,我々所員に対しても大変気軽に話しかけて頂いたが,木村先生が来所されたときには,威圧感があり緊張したことを覚えている.大槻先生が講座で述べられた言葉で今も覚えているのが,「皆さん教員は,個人的にコンピュータから逃げることはできても,教育的には逃げることができません.」というお言葉であった.この言葉は,その後の教員としての勤務の中で,何度となく思い出したものである.篠原先生は,大変気軽に我々所員対して話しかけて頂き親しみ深かった.当時はパソコンの黎明期であり,パソコンの教育への利用について,主にCAIの研修を富士通のSchoolAceというシステムを利用して行っていた.同時に,タートルグラフィックスで有名なLOGO言語によるプログラミングの指導も行った.このようなことにより,当時のコンピュータ教育を牽引されていた先生方を知ることができた.その後,2年の教育センター勤務を経て僕は武雄北中学校に赴任することになる.ここでも僕は,コンピュータの教育利用についての仕事をすることになる.それが「ネットワーク利用環境提供事業」,通称100校プロジェクト(1995-1996)である.ここで僕は,その責任者となってインターネットの教育利用について実践を行うことになった.そのときに地元の大学として佐賀大学が,実験用のネットワーク環境を構築することとなった.それを率いていたのが,佐賀大学理工学部教授の近藤弘樹先生である.近藤先生は僕が佐賀大学の物理学科時代の恩師であった.ちなみに,インターネット回線を使ったテレビ会議システムを用いて日本で初めて学校間の音声と動画を送受信する実験に成功したのは我々である.すなわち,現在のオンライン授業の始まりは佐賀県からということになる.100校プロジェクトに絡めて行われたこの実験を,「グローバルクラスルームプロジェクト」と称した.

さらに2数年後,佐賀県内の高等学校2校が「へき地学校高度情報通信設備(マルチメディア)活用方法研究事業」に指定され,僕は学識経験者として,その評議会の委員となった.そのときにおいでになったのが,佐伯胖先生である.このようなことから,時々佐賀大学の授業にも外部講師として呼ばれることになったり,研究発表会での指導講師として講演をしたりするうちに,佐賀大学教育学部教授の角和博先生と知り合うことになる.さらに学会にも入会し分科会等で発表する機会が増えてきた.そしてその共同研究者として角先生が定着した.角先生のご専門は技術教育であり,また情報教育にも造詣が深く,e-learningについては早くから取り組まれて,僕が放送大学修士課程に入る前から論文を共同で作成していた.また,僕が博士後期課程に入ってから,僕の論文が角先生の研究室に来られていた近藤弘樹先生(このときはすでに佐賀大学の名誉教授)の目に止まり,3人で共同研究を行うようになった.ところが,以前の書き込みでも書いたように,2016年9月に近藤先生が急逝されて,共同研究は再び2人となった.近藤先生は名古屋大学のご出身で,先生の葬儀には学生時代を共に過ごされ,2008年にノーベル物理学賞を受賞された益川敏英先生が参列されていた.

放送大学博士後期課程と学位取得11

博士後期課程の1年目は,教育学研究法(2)「教育社会学研究法」が後期に放送大学本部で開催された.使用教材は,「社会科学のリサーチ・デザイン~定性的研究における科学的推論~G・キング,R・O・子へイン,S・ヴァーバ著,真渕 勝 監修,勁草書房」で,研究法に関するページについて講義があり,その後,指定された数十ページの内容についてコメントを書くというレポート提出の課題が与えられた.文字数は2000文字程度(?)と少なかったように記憶している.この課題が終了して次に取り掛かったのが査読論文の作成である.目標は,2年目終了までには,査読論文1本とそれに準ずる論文1本を書き上げることである.

3年間で博士論文を書き上げるスケジュールとしては,

<2015年度>

<4月-------------------------------1年目------------------------------------->

   入学           人間科学特論               教育学研究法(2)

                                              《目標》査読論文①作成→

<2016年度>

<4月-------------------------------2年目------------------------------------->

                    数理・情報研究法(4)

   《目標》査読論文①完成                                                         《目標》準論文②完成

 <2017年度>

<4月-----------6月----------------3年目----------------12月---------------->

      予備論文審査               博士論文提出   修了

 《目標》予備論文完成・博論書き始め                  《目標》博論完成      

 

このように設定した.

査読論文①のネタは既に持っており,修士論文との兼ね合いについても十分考えていたので,2016年度の初夏には完成することができた.そこで,当時所属していた学会に投稿した.しばらくして条件付き採録として戻されたので,修正を行い再投稿した.しかし,一人の査読者から修正箇所以外の新たな実験要求があり,この学会への投稿を断念することになる.僕は,修士論文を書き上げる前から,地元の大学の先生と共同研究を行っており,途中から僕の物理学科時代の恩師である名誉博士も共同研究に参加頂いて論文の執筆をしていた.この学会への投稿の断念は3人の合意である.

すぐさま別の学会への投稿へ舵を切った.その最中に恩師の名誉教授が急逝された.2016年9月である.

 

 

~ひと休み2~

Amazon Prime Videoで「感染列島」という映画を観ている.得体の知れないウィルスが日本列島に広がっていく話である.恋愛物語と揶揄される展開もあるが,現在の医療崩壊らしきシーンも多く表現され,実際の医療現場の様子を垣間見た気がした.完全に主役は医療現場である.実際,この瞬間も医療現場は戦時中のように一刻一秒を争っている.物語は血清療法によってウィルスを封じ込めた.現実では,新型コロナウィルスの対策はどこまで進んでいるのか.政府の10万円の話ばかりメディアを賑わせ,不安が蔓延してくる.この映画の途中で,感染者数に関して「政府はもはや正確な数字を挙げられなかった.」というテロップが提示された.まさに今の状況がこれであろう.最初から検査体制を整えられなかったことは,早期の医療崩壊を防ぐことに役立ったかもしれないが,先の見えない現実のなかで生活する辛さもある.

学校では今日(4/21)からの休校に備えて,昨日は休校に対する指導を行った.いつもなら,明日から学校が休みとなれば,児童もウキウキするものであるが,その様子はいつもと異なっていた.再び明日から,家にこもって生活しなければならないことを気にしている様子が伺える.3月ほぼ全ての授業日が自宅待機に代わり,やっと4/6になって新学期が始まり,ウキウキした表情で登校した児童が再び2週間の自宅待機となった.現実は映画と違う.映画は制作側が主張する社会構造にフォーカスして一次元的に思考することが多い.しかし,現実は様々な社会現場で事が同時進行して行く.さらに,様々なメディアが進化した現代は,ふと思考するときに多次元的に物事が見え,それぞれの異なる空気感を感じてしまう.映画と違い,このような状況をコントロールする政治家は,現実に起こっている現象を感じて,まさに多次元的に思考する能力が求められている.「感染列島」の評価が,「結局,恋愛もの」などと厳しかった人の気持ちも分かるが,あまり政治の場面を描けなかった制作側の気持ちも分かる.それをやったら視聴者に何を感じてもらいたいかの主張が曖昧になってくる.

4・5年の児童には,家庭での観察を指示した.子供用の温度計を貸与し4年生は晴れの日と曇りや雨の日の気温の変化を1時間ごとに記録する.5年生は1日の午前と午後の雲の様子をスケッチする.このようなことでもしないと,5月7日からの再開には間に合わないかもしれない.しかし,その後のことは全くの白紙状態であり,再び延長するかもしれない.そうなったら,まさに「感染列島」が現実となり,映画に表されていない新たな恐怖が襲ってくるかも知れない.そうならないことを祈ろう.

放送大学博士後期課程と学位取得10

どのような日程で行われたのか記憶がはっきりしないが,MさんやSさんの進捗状況の紹介後に,人間科学特論(2単位)の講義が行われたと思う.人間科学プログラムの2期生として合格したのは,僕の他には某県の職員Aさんであった.この日の集中講義は2人で,主に臨床心理学,社会心理学認知心理学等の指導を受けた.さらに別日程で,指定された本を持参した上で教育社会学等の講義があった.このような対面式の授業は,人間科学特論の授業では,数日で終了するように集中講義の形で行われた.そのたびに課題が出され,期限までにレポートを提出することで単位が決定した.

僕みたいな地方在住の学生は,頻繁に千葉本部に出向くことはできない.したがって,主研究指導の先生とは常にメールでやり取りしながら,研究計画を練り直していた.何せ最初の研究テーマが「イメージを主要な情報として位置付けた授業方略の研究」と,ずいぶん焦点がぼけたテーマであったことから,主研究指導の先生からは,もっと具体的な提案をするように指示を受けていた.このころの考え方としては,学習の全過程において何らかのイメージが情報として学習者の前に提示されることで,学習者は言葉の意味を逐次確認しながら学習に臨むことができるようになり,また,このような学習を続けると,学習者は思考する度にイメージを拠り所に課題に取り組むことができるようになると考えていた.したがって,主研究指導の先生は,副研究指導の先生にICT教育関係の先生を指名していた.自分自身としては,そこまで機械に頼るつもりはなかったのだが.

とにかく,最初の提案は随分粗いものであったと反省する.したがって,研究の見直しが1年目の課題となって焦りを呼んだ.さらに,博士論文を書く前提条件として,まずは少なくとも「査読論文1本+それに準ずる論文」が課題として課せられることになる.

放送大学博士後期課程と学位取得9

放送大学博士課程に進学して初めてのゼミが,2015年の4~6月に放送大学本部のゼミ室(修士課程でも利用していた)で行われることになった.ゼミ室に入るのは3-4年ぶりだ.すでに2名の学生がいたが,見覚えのある人物が1人いた.修士課程で同期だった元文部科学省官僚のMさんである.その隣にも元官僚のSさんがいたが,この方とは初対面であった.僕がゼミ室に入ってMさんと目を合わすと,Mさんは一瞬驚いた様子を見せた.まさか現職の小学校教員が2期生として,再び同じゼミ生としてやって来るとは予想しなかったのだろう.文部科学省官僚と現職の教員の組み合わせも面白いものである.その日は,MさんとSさんの研究の進捗状況を紹介してもらい,2期生として次回の報告書をどのように作成すればよいかについて指導を受けた.Mさんの研究については,修士課程のゼミでもお話を伺っていたので,ある程度は理解できたが,Sさんのそれは初めて聞く内容だったのでよく理解できなかったことを覚えている.

このとき同席された指導の先生方は副査の先生がたもいらっしゃったように記憶している.また,人間科学プログラムの1期生と2期生は,全部で4名ほどであったようだ.

 

~ひと休み~

コロナウィルスの蔓延で何でもかんでも自粛されています.僕が楽しみにしていた宝塚歌劇団の公演も,6月末(4月9日現在)まで全公演が中止となりました.緊急事態宣言も出て,様々な職種に大きな影響が出ています.

教育関係では,地元の佐賀大学は前期の授業全てをオンライン授業で行うことになったと聞きます.そこで学長要請があり,大学の教員の皆さんは,オンライン授業用のコンテンツを早急に作成することになりました.娘の大学である同志社大学も,春学期の授業を全てオンライン授業で行うことになりました.緊急事態宣言によると教育関係では,塾や大学の閉鎖も要請されています.しかし小中高の学校は,その要請の中に入っていませんでした.

僕は現在,小学校に勤務していますが,完全に無法地帯と化しています.密閉・密集・密接の要素は,ある程度自身の行動を律することができる大人は理解できますが,特に小学生には全く意味を持ちません.休み時間には元気に密集状態の中,密接状況の中で遊んでいますし,マスクを外している児童も多く見受けられます.政府の緊急事態宣言をどのように説明すればいいのか,宣言を出す人が範を示してほしかったものです.

3月の大事な時期に小中高を休校にして,大切な思い出を作る間もなく卒業していった児童・生徒のことを思うと残念でなりません.一方,コロナ渦の状況は今が切迫しています.そのような状況下で,小中高は今までと変わらない風景に戻っています.いっそのこと,半年学校を閉鎖して,9月新学期という大英断はなかったのかということすら言い出す教員もいます.政府には,しっかりしてもらいたいものです.小中高で児童や教員が感染したらどう対応するのでしょうか.

放送大学博士後期課程と学位取得8

この記事は2014-15年の記憶を再生しながら書いているが,流石に5-6年も前のことになると記憶の中身がはっきりとしない部分がある.ただ,心象の変化があった場合は,その時の映像が浮かび文章化することができる場合がある.できるだけ正確に書いていこう.

今回ちょっとした訂正がある.以前,放送大学の博士後期課程の主研究指導教員は,放送大学の方で決められるようなことを書いたが,実は,出願書類の中に自分の研究計画を指導してほしい放送大学の教員を書いていたのだ.それには,教員名とその理由を書かなければならなかった.また,放送大学をどうして志望したのかも書く必要があった.僕は,修士課程で指導を受けた先生を主研究指導教員として指名していた.ただし,出願にあたって,事前に目的の先生とやり取りすることは許されていなかったことも思い出した.

オリエンテーションが終了してから,主担当の先生と研究内容について話し合いを行った後のことについては,記憶があやふやである.

放送大学本部には,修士課程の人間発達科学プログラムで使っていたゼミ室があり,博士後期課程の初めてのオリエンテーションは,この部屋で行われた.その日程が,オリエンテーションの後だったのか,別の日程だったのかは記憶にない.

博士後期課程入学後の初めてのゼミは,おそらくオリエンテーションとは別の日程で,4月~6月であったかもしれない.

放送大学博士後期課程と学位取得7

格通知と添付されていた文書を読んで博士後期課程でも単位を取らなければならないことを知った.取得すべき単位数は18単位で,その内訳はプログラムでも異なるが,人間科学プログラムでは次のような科目であった.

①人間科学特定研究(研究指導)・・・・所謂,博士論文の作成で1年次から全ての学期で行われる.(12単位)

②人間科学特論・・・・2015年前期 (2単位)

③教育学研究法(2)「教育社会学研究法」・・・・2015年後期 (2単位)

④数理・情報研究法(4)「知識情報処理研究法」・・・・2016年後期 (2単位)

3年次は当然ながら博士論文の作成が本格化する.

2015年4月の第1土曜日に,博士後期課程合格者のオリエンテーションが幕張本部で開催された.広い部屋の奥に二列で指導担当の先生方が座られていた.学生は12名程度だったと記憶するが,学生が座る机の列は,先生方の机に対して垂直方向に3列並んでいた.自分は真ん中の列で先生方の机に最も近い最前列に座った.ちょうど目の前に,修士の指導教官で,面接試験で質問をされた恩師が座られていた.

放送大学の博士後期課程は,一般的な大学の博士後期課程のように指導教官は初めから決まっていない.このオリエンテーションによって一方的に放送大学によって指導教官3名が発表される.その結果自分の指導教官は,予想通りに修士課程で指導いただいた先生が再び主研究指導教員になられた.その他に2名の先生が副研究指導教員として紹介された.

 

 

放送大学博士後期課程と学位取得6

一次試験合格の経験は,相当なテンションアップにつながることになる.このチャンスを逃したら・・・と思うことによって自分自身を高揚させていった.次は面接試験であり,約20名程度の一次試験合格者がいると思えば,2倍の倍率を是非とも突破する!と活を入れた.今となっては、2次試験の日時を覚えていないが、2014年12月か2015年1月であったろう.千葉県幕張の放送大学本部へ赴き,会場への張り紙を見て2階の控室に入る.時間差で面接が行われていたため,自分も含めて3名しかいなかった.ほどなくして,その1名が試験の行われている部屋へと消えた.

面接試験は,研究計画についての質問であるために,大学に提出した内容を確認した.しばらくして,係の人から試験会場に行くように促されて部屋に入った.緊張していたが試験官の中心に座っておられる人物を見てホッとした.大学院の修士時代に指導を受けた先生だったからである.面接が始まり発言したのはその先生であった.

修士時代の恩師ではあるが,赤の他人のように淡々と質問をされたので妙に納得して,こちらも淡々と答えた.先生とのやり取りのなかで覚えているのが,「修士論文は全部忘れなさい」と言われたことである.「これまでの研究を一度リセットし,再度見直してみよ」というのであったろう.そのうえで,もし博士論文を書き上げたらどうするかと問われたので,「自分は辻説法のように,現場の先生方に成果を伝えたい」と答えた.すると,「その時は,ドーンと成果を伝えるべきであろう」とおっしゃった.面接試験の大半は,研究計画の実現可能性と研究の現状確認であったと記憶している.

面接で約半数の受験者が不合格となる.後期課程に入学して博士論文が書けるかどうかを見られていたと思う.ここまで来たが,合格する自信などなかった.

ところが,1月か2月に届いた分厚い封筒に合格通知が入っていた.2期生として2015年4月からの入学が認められた.倍率約10倍,小学校教員としては上出来であった.